【コダワリ #8】保護犬を飼って1年がたちました
以前、実家で黒いラブラドールを飼っていた。この犬は家族の愛情を一身に受けて12歳でこの世を去った。この犬がまだずっと若かった頃、当時の職場で犬仲間だったなっちゃんとのある日の会話が、それから二十数年後の現在、保護犬のフジコを迎えるきっかけとなった。
二十数年前のある日の会話
私「友達が保健所で子犬をもらってきて飼っていたんだ。その保健所での話を聞いた時、たくさんの犬の中からたった1匹を選ぶなんて、私にはとても無理だなって思った」
なっちゃん「たしかにね。でもさ、その友達が保健所に行って選んだから、その子犬は生きたんだね」
私「え……」
このなっちゃんの言葉は、それまで私の中でわだかまっていた「命の選択 = 選ばれなかった命」の図式を「命の選択 = 生きる命」に変えてくれた。
犬との暮らしを夢見る日々
1匹の犬が与えてくれる愛情は、人間のそれとは比べ物にならないほど無垢で寛大で、だからこそ愛犬家は犬を飼うことをやめられない。とはいえ、黒ラブが天命を全うした時は「二度と犬は飼うまい」と誓い、思い出すたびに涙が溢れた。
それから10年後、相変わらず思い出し泣きはするものの、犬との暮らしを再び夢見るようになり、そのたびになっちゃんの言葉もセットで思い出すようになった。私がそうと決めさえすれば、「生きる命」が我が家の家族となるのだ。
それから、まずは保護犬サイトを見て、それから譲渡会や保護犬活動家を訪ねたりした。でも、結局1年たっても犬を迎えることはなかった。犬を飼いたいという気持ちだけでは犬を飼うことはできないことを再認識したのだ。
このnote主であるインプレスという会社は出版社で、本作りという仕事はとにかく時間喰いである。その編集を生業にしている私は、平日のほぼすべてを会社で過ごし、家に残された犬はじっと私を待ち続けることになる。
犬を飼うときの心構えとして私が自分自身に決めていることは「私が犬を飼う」ということだ。もちろん家族は手伝ってくれることもあるけれど、それは「お手伝い」であって「飼い主」ではない。散歩、食事、健康管理、安全管理など、犬が生きるすべての責任を私が負うというのが絶対条件なのだ。だから、私は犬を飼うことを諦めた。
フジコとの出会い
ほどなくして、新型コロナウイルスのパンデミックにより仕事は自宅でのテレワークに切り替わった。そのさらに1年後には、神保町にあるインプレスの本社フロアが大改装され、すべての社員は出社が必須ではなくなった。コロナ明け後も自宅で仕事ができるというわけで、私は満を持して犬活を再スタートしたのである。
一言に保護犬と言ってもさまざまな犬がいる。野良犬、迷子犬、捨て犬、繁殖所やブリーダーから保護された犬。人間が怖い犬、歳をとった犬、病気の犬。保護犬を探すたびに知らなかった現実、見ないふりをしていた現実を垣間見る。
保護犬活動家もしかり。東京、神奈川、静岡、愛知と訪ねて、さまざまなタイプがあることを知った。訪問は犬との面会だけでなく、私という人間の面接でもあるのだ。自分に合った活動家に出会うことも重要だなと感じた。
選択を迫られるたびに、私はなっちゃんの言葉を思い出し、ついにフジコに出会ったのである。
犬を決める時は家族にも参加してもらった。「飼い主」は私でも、家族になるのは私たちだからだ。たくさんの犬の写真を見せて説明をした後、満場一致で選んだのがフジコだった。家族みんなで車に乗り込み、名古屋まで会いに行った。フジコは白くむっちりした体で出迎えて、私たちはフジコを撫で回し服を白い毛だらけにして「もう黒い服は買えないね」と笑い合った。
それから数週間後に我が家にやってきたフジコ。
朝晩と1時間ずつの散歩で、むっちり体型だったフジコの体重は3キロ減り、私の体重も5キロ減った。
食べるのが大好きで、よだれをボタボタ垂らしながらなんでも食べる。でもアレルギー体質だから拾い食いをしては下痢をする。窓辺に張りついて近所のアニマルパトロールをする。1日18時間くらい(!?)を寝て過ごす。お風呂とレインコートが死ぬほど嫌いだけれど、尻尾を後ろ足に挟んでぐっと我慢する。人間以外の動物との付き合い方がわからず大暴れする。お客様は大好きだけど3回目以降は飽きる。名前を呼んでも来ない。「散歩に行こう」と言うと走って逃げる。
子犬の頃から共に生活した飼い犬と比べて、知らない環境で生きてきた保護犬は予測不能な行動や摩訶不思議なこだわりが多い。我が家に来て1年たった今もまだまだ知らない顔があるなと感じる。イケイケなのにツンデレなフジコ。そのどれもが愛おしくて、何でもしてあげたくなるのに、フジコは何もいらないよと言う。だから、迷惑顔のフジコを今日も撫で回すのである。